タイ軍事史


12世紀〜15世紀
スコータイ王朝期(1257〜1
350)
8世紀ごろ中国雲南・四川地域からタイ族は南下してきた。
その後、いくつかの小国を形成するも、12世紀ごろまで真臘(しんろう・当時のカンボジアの中国名)の下にあった。
しかし、真臘(クメール帝国)の凋落とともにスコータイ地方で内乱を起こす。
その後、スコータイ地方を平定し、始めてのタイ人王朝を開く。
これを以ってタイ王朝軍事史の始まりとする。
アユタヤ王朝(1350〜1767) スコータイ王朝の時代においても重要な貿易地であったアユタヤに起こった王朝。
元はウートーン地方の支配者であったラーマティボディが、アユタヤに入り
一個の王朝として開く。
新しい勃興勢力としてのアユタヤ王朝は、軍事的にも大きな力を持っており、
当時、政治が腐敗していたスコータイ王朝はこれを討伐する力が残っていなかった。
他地方の支配者たちもこれを抑える力がなく、アユタヤ王朝は絶対的な軍事力で
周辺を併合してゆく。
そして、タイ国史上最大の領土を持つに至る。
その後、1767年にアラウンパヤーによって建国されたビルマ最後の王朝、アラウンパヤー王朝に
滅ぼされるまで、発展を続けて行く。(アラウンパヤー王朝は1886年にイギリスに滅ぼされる)

ちなみに、日本人の山田長政が六昆太守として活躍したのはこのころである。
トンブリー王朝期(1767〜1782) この王朝はタークシン王一代限りの王朝である。
この王はアユタヤ王朝時代猛将として名を売った将軍であった。
首都アユタヤ陥落前に自分の兵団を避難させていたタークシンは逃散勢力を集結し、
ビルマ軍によって占領されたアユタヤを急襲。
完全にビルマ軍を撤退させるに至る。
その後、廃墟と化したアユタヤを捨てトンブリーに王朝を開く。
晩年は精神錯乱に陥ったとされるが、ビルマ軍を撃退した英雄として今も地名や銅像に名を残す。
チャクリー王朝期(1782〜) トンブリ王朝時代に将軍職にあったチャオプラヤー・チャクリーが、
精神に異常を来たしたタークシン王を処刑したときから始まる。

その後、ラーマ6世の御世、1917年7月22日に連合軍側からの要請により
第1次世界大戦に参戦。
これによって国際連盟に加入。

1932年、ラーマ7世の御世。
王がホアヒンの離宮に於いて保養中の6月24日に立憲革命がおきる。
これは、武官派のパポン大佐と、文官派の領袖プリティ率いる人民党による。
そして、12月10日に新憲法を公布し、自ら絶対王政を葬ることになる。
第2次世界大戦 タイは1941年12月8日に日本に侵攻を受ける。
プレーク首相は日本の東南アジアにおける勢力を認識すると
日本軍のタイ国内通過を認めざるをえなかった。
東南アジアの大国であったタイも日本軍に対抗しうるだけの軍事力をもたなかったのである。
その後、タイは日本の植民地化政策を逃れるために日本と同盟を結ぶことになる。
そして、枢軸方に与することにより英米に宣戦布告することになる。
1942年1月25日のことである。
これによって、タイも連合側の攻撃対象となる。
第2次世界大戦後 戦後、摂政プリディー=パノムヨンは英米への宣戦布告は無効であると宣言した。
しかし、イギリスはこれを認めず賠償金を要求、泰麺鉄道を売却することを要求された。





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